オバマ政権の打ち出した景気回復策、グリーンニューディール政策と呼ぶらしい。具体的にはよく知らないのだが、かつての大恐慌時代に習い、ダム建設に代わって、エコやCO2削減産業を振興することで、景気を刺激しようということらしい。発想としてはまことに素晴らしい。
翻ってわが国では、ちょっとオツムの足りない総理大臣が、アホ発言を繰り返し、その揚げ足取り合戦に花が咲く。総合的に見てエコ産業の技術力は、世界でおそらくNo1なのだから、そういう発想はわが日本から出てしかるべきなのにね。大統領制のような立場の安定とリーダーシップが発揮できる環境にあることが、こういう大不況の時期には大事なのでは?とも思うけど、発想力に乏しければ、制度だけ変えてもたぶんダメだよね。
Stevie Wonderのこのタイトルの名曲は、'72年に発売されたものだから、当時ぼくはまだ小学生だったことになる。やっぱStievieはすごいなぁ。そのころからずっと一線で活躍し続けてるのって、Rolling Stonesと彼くらいでしょ?
って話を書きたいわけじゃないんだけどね、今日は。前に書いたUFOを"信じる"話とか、中国餃子事件とかに絡んで、いわゆる中世的な迷信ってなくなったようで、当時ほど神仏がらみではないにせよ、現代にも厳然と生き残っていて、特に食だとか環境だとか健康だとかに関わることって、そう言うのが多いよね、って話。
出たよまた。冷凍ギョーザ問題。どこのブログも今この話題沸騰かな。なので敢えて書かなかったんだけどね。やっぱ書いとこう。
ぼくはこの手の問題が起きると、日本人は(だけじゃないのかもしれないけど)必要以上にエキセントリックな反応すると思うのね。前に書いた魔女狩り的なさ。すごく原初的で感情的な。それがなんとも情けないというか、ガマンならないんだよね。カッコ悪すぎ。
いよいよ年末も押し詰まってきましたな、という季節感は、クリスマスが終わると感じる。
クリスマスと言う行事は、ぼくはものごころがついたときにはミッション系幼稚園にいて、毎日礼拝堂でお祈りしたりしていたので、世間の仏教徒&無宗教な方々よりは、便乗感なくキリストの誕生日であることを意識できている気がする。いやいや、今はぼくだって完全に無宗教なんですけどね。
でも世間はクリスマスに向けて盛り上がっていくし、最近は家に電飾をするところがすごく多くなった。そういう家々がみんなキリスト教徒であるわけはなく、明らかに便乗感満々なんだけど、ぼくは別にそのことに抵抗を感じないし、電飾はきれいだから、うちはそんなに凝ってはいないけど、端くれくらいには電飾をするし、居間にツリーを立てて、その電飾を電気を消して眺めたりするのも嫌いではない(下の2枚がうちの写真。上の2枚は誰かの住宅ではなく、近所のパン屋さんの電飾です)。
うちのサンタは、もう3,4年前から来ないことになった。息子と娘が5歳離れているので、まず娘が幼稚園のころに、実家からの帰りの車で、まだ起きていた息子に、サンタは我々であり、娘にわからないようにお前向けのプレゼントも置いてやるけど、いつまでも続くと思うな宣言をしたうえで、その晩まで忙しくて用意ができなかったゲームの攻略本か何かを、本屋に寄って買う、ということがあった。
それから娘が確か4年生の時に、サンタのほかに親からもプレゼントを要求するなど、どう見ても確信犯であることが読み取れたので、サンタはもう来ない宣言をして、それ以来、うちにはサンタは来ない。
サンタは来ないけど、でもクリスマスはやっぱりクリスマスだよね。クリスマスソングなんていいもんだし、前の会社でやってたバンド向けに作ったりもしたし、「健康」も大昔のラブソング時代にだけど、なかなか素敵なクリスマスソングを持っていた。
最近の「健康」でいうと--というか昔からやってる曲なんだけど、レコーディングの時に歌詞を少し書き換えたもので--ぼくのお気に入りのフレーズは、"正月早々めでたいな"という曲に出てくる「クリス松」という一言。
これって、ツリーを片付けると今度は松飾の準備をして、お正月には「春の海」を奏でる琴の音を聴き、雑煮を食べ、初詣に出かけ、っていう、なにげない年末年始の行事の、なんと和洋折衷、節操なきことはなはだしきことか、--って言うかそもそもクリスマスが過ぎると年末が押し詰まってきたと言う冒頭に書いた季節感自体そうだよね--そういう我々日本人の無節操への皮肉を、たった一言で見事に表してると思うんですよね。
まぁこういう便乗感がなくなってきて、あたかも元々そうであったかのように溶け合っていくと、それはもはや新しい「文化」なんだよね、きっと。歴史的には、仏教伝来以来の神仏混合とか、なぜ餅を食べるようになったのかとか、いろいろ謂れがあって、それぞれに当時は違和感があったことが、溶け合ってきてるんだよね、多分。
夫婦でも同じじゃないですか。互いの文化の融合だよね。靴下のたたみ方とか、朝の歯磨きは食前か食後かとか、そういう本当に日常の、結婚前の甘い気分を吹き飛ばす、思いっきり現実的な現実の中の、ほんとに当たり前の細かいこと一つ一つにね、それまで生活を共にしてきた家族の文化が、人間だれしも染み付いていてね。
それが食い違うことが本当に新鮮なんだよね。そんな気分はうちの場合、もう結婚20年経って、もはや少なくとも19年くらい近く感じたことがないけども。子供ができると、彼らが体現することがその家庭の文化になって、多くにおいて妻方に少し寄った形で、固まっていくんだと思うんだけどね。
ということで、クリスマス&お正月文化論でございました。
今日は鴻巣の免許センターまで免許の書き換えに行き、その足でブーランの学校へ行って「健康」の練習をした。
前までは地元の警察署で免許の書き換えができていたのに、今回は駐禁2回やっちまったため、わざわざ鴻巣くんだり(失礼)まで行かねばならない。同じ埼玉県内とはいえ、鴻巣まではうちから約40Km、しかも使える高速がないので、下の道を約1時間半かけて走っていかねばならない。(なので今日は、トータル100Kmほどを走った。高速一切使わずに!)
前は軽微な違反なら数ヶ月で消えて、その分はカウントされなかったと思うんだけど、最近のいろんな改正で厳しくなったのかな?片道1時間半プラス、2時間の講習を受けねばならないと言うことで、手続きにかかる時間も含めて約5時間半、これはすっかり1日仕事だ。せっかくの遅い夏休みなのに!
しかも免許の有効期間は3年間なのに、次回の書き換えの際もその時点から過去5年遡って、その間に2回の違反があったらアウトだという。つまり、よく憶えてないんだけど--っていうかちゃんと憶えてる人なんていないよね、いつ駐禁取られたかなんて--その2回の駐禁を現時点から過去2年間にやってたとしたら、次回も鴻巣確定だと言うことだ。これからの3年間に何も違反をしてなくても!
なんかおかしくない?
だいたい、軽微な違反で消えるケースとか、いろいろと複雑なポイント制度なので、今自分の累積ポイントが何点なのか、よくわからない。それを確認するには申請書が必要で、その申請書の購入に700円取られると言う。
なんかさ、違反を抑制するんではなくて、違反させて捕まえようって意思を感じない?まぁ収入を増やしたいってのは、一般企業であれば正当な商行為なんだけど、警察・交通関連の役所が潤おうとするのって、どうなの?
やっぱ違反を抑制するためにもっと積極的なしくみを導入するってのが、どう考えても本来の姿だよね。それを累計点数の確認にすら金を取るなんて。自分のポイントがわからないまま、つまり「あと1点とられると免停だ」っていうモチベーション--マイナスのだけど--すら働かないで、「えっ、ウソ。オレ免停?」っていう状況を、意図的に起こさせてるわけですよ。だったら何のための点数制度なんだってことでしょ?
まず第一に、自分の累計ポイントを、Netで見れるようにしろって。免許番号で検索してさ。
それから、これは前向きな提案なんですが、マイナスのモチベーション、つまり罰点制度を改めない?駐禁とかちょっとしたスピード違反とか、1点とか2点とかの罰点は、罰金は取ってもいいけど、点数制度は前向きなモチベーションが働くように直そうよ。
つまり、3ヶ月ごとに、違反がまったくなければ点数を1点加算するわけですよ。それを、有効期間中、積み上げていく。つまり5年の人なら4×5=20点たまる。で、たとえば免許の更新料を20,000円に値上げしといて、1ポイント1,000円換算で値下げする。つまり5年間何もなかった人は更新料もタダってわけ。
一歩進めて、マイルとかビックカメラ、ヨドバシなどのポイントとも、交換モールで交換できる、までやってもいい。3ヶ月で1,000円分のポイントをタダでもらえるなんて、結構でかくない?
しかもビックで買い物したポイントを、免許更新料に充てられるんだよ。よくね?
こうすれば、3ヶ月ごとを、みんなすごく意識するようになるじゃん。しかもポイントをためたいと言う、あの不思議なモチベーションが、前向きに働くようになる。
ウチのかあちゃんは、人間はそんなバカじゃないから、そんなモチベーションは働かない、って主張するンだけど、残念ながらこれだけは、厳然たる日本人の真実だよね。普段えらそうにしてる大会社の役員とかが、マイル集めに必死だったりする、あの不思議なモチベーションね。
駐禁とかちょっとした違反が、明らかに減ると思うよ。
やめようよ。警察の食い扶持を、減らさないようにしようって考え方。自分の仕事--特に生産的でない、創造性のない単純作業--をなくすことが、自分の仕事でありたい、そのためにする工夫なら労を厭わない、っていうのが、できる人間であれば、当然の心持ちだと思いませんか?そんなんだから公務員は何かと批判の対象になるのよ。
ということで、ちょっとした制度改革の提言でした。お粗末。
今年から更新する免許はICカード入りなんだね。これはこれで一歩前進。評価してあげよう。
投稿情報: 23:59 カテゴリー: 主張, 時事問題 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
新カテゴリ「主張」を作った。
なんか最近、あったこととか存在するものとか、って言いながら、前はMixiにしか書かなかったよう な、おいおい、これオープンにして大丈夫なのか?っていう思ったこと、青年の主張っぽいやつを、このブログに書いちゃってるなぁ。ヤバくない?これ。「あ の頃の未来は」って歌詞のこと書いたあたりからかな?
今日は昨日の"後姿"に続く青年の主張、"UFOを「信じる、信じない」で語っちゃうのって..."でございます。
昔から思ってるんだけど、UFOって、幽霊とほぼ同列に語られてるじゃん?あれって不思議だよね。別にぼくは矢追純一ファンでもないし、UFOだって見たことはない。だけど信じるとか信じないなんだっけ?
いや、厳密に言うとUFOが、ではなく宇宙人が、なのかな。だって、いや、そもそも宇宙人とかUFOっていうワードが既に奇怪感を帯びちゃっているのでよろしくないんだけど、広い宇宙の何億という惑星の中には、地球と同じような形態かは別として、生命を持ったものもいるだろうし、彼らが地球よりもはるかに進んだ科学力を持って、地球に飛んでくるという可能性はないとは言えないし、科学的にありえないことじゃないじゃない。
だから幽霊とかゾンビとか、呪いとかポルターガイストとか、そういう超常現象系の話とは、もともと次元の違う話だと思うんですよ。
UFOが飛んでたら「おっ!すげっ!」とは思うと思うけど、それは別にありえない話ではないから、すごく確率の低い現象---いや、現象ではないか、現実か---に出会ったんだなと思うだろうけど、
そして、それを飛ばしてきた科学力の進んだ生命体が好戦的であったなら、我々などひとたまりもないかも、っていう恐怖感はあるだろうけど、それは非科学的なものを見た原初的な恐怖感---いわゆるゾッとする、ってやつ?---とは、違うものだと思うんですよね。
だからといって幽霊なんて非科学的なものは、ぼくは頭から信じません、という気もないのだけど。だから「オーラの泉」を観ても腹は立たないし、江原啓之さんにぼくの背後にどんな人がいるのか、看て欲しいと思うし。彼があそこに出演している芸能人たちの情報を、あらかじめ聞かずにいろんなことを言い当ててるんだとしたら、それはなにがしか科学的な裏づけがあるか、さもなくば本当に超常現象なんだよね、ってことじゃない。それはそれですごいことだな、と思うんですよ。
だけど彼が普通の常識人である限り、それに対して恐怖感は感じないよね。彼がもしヒトラーだったら、UFOで地球征服に来た知的生命体に対するのと同じ恐怖感を感じるかもしれないけど。
幽霊に実際に遇ったら怖いかも。それは原初的な恐怖感。だけどそもそも幽霊って、人間の
想像力が作り出したもので、そういう原初的な恐怖感を詰め込んで成立したイメージじゃない
ですか。そりゃ怖いでしょ。
そう言う意味では、UFOだって信じるとか信じないの対象になってるうちに、ホントに見た人もいるんだろうけど、なんだか話に尾ひれがついてきて、地球の乗り物では信じられないような飛び方をするとか、突然消えるとかばかりが強調されて、原初的恐怖感の固まりになってきてるけどね。
だけど現実に、目の前にいる人が、実は一度死んでいて、でもまったく普通の人間と同じに生活できているとしたら、気味悪くは思うだろうけど、恐怖感はないよね。
つまりUFOにも幽霊にも、原初的恐怖感と、自分が殺されるかもしれないって言う恐怖感と両方あるようにさせられて来たんだけど、前者はたぶん科学的に説明がつくことであるはずなのに、なんかそのへんの恐怖感を意図的にごっちゃにさせられて、その存在自体が、信じるとか信じないとか言う対象になってしまっている。
そういうところって、科学も発達しておらず、教育水準も低かった古代や中世の人々と、何も変わってない感がして、なんだかすごく情けなくなるんですよね。
しかもそういうのがなんだか国民の共通認識みたいになっちゃうところも、残念ながら国民性なんだよねぇ。まぁ、単一民族だから、そういう感受性が複数クロスオーバーしてなくて、なんだか相乗効果でアッという間に盛り上がっちゃうってことなんだろうけど。自我が確立してないって言うか、アメリカだったらなさそうな、そういうなんつーか「村」感?が、日本には濃厚に残ってるよね。まぁ、西洋でもヨーロッパには"魔女狩り"なんてのがあったけどさ。
これもまた、考えてみれば超常現象に近い不思議な集団心理ではありますな。
というわけで、UFOを「信じる、信じない」っていう物言いは、やっぱかっちょ悪いんでやめませんか?っていう話でした。これがまた、貼る画像がないな。探そう。
投稿情報: 23:25 カテゴリー: 主張, 時事問題 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ホントは作曲しなきゃならない・・・しなきゃならないってことはないな、アイデアがいくつかあって、したいと思ってるんだけど、なかなか気合いが要るんですよ、曲作るのって。でついアイデアメモだけたまって行っちゃうんだけどね・・・のに、どうにもサボり癖で、ビデオ屋に行ったんだけど、観たいビデオもなく、結局J-POPばかり5枚のCDを一気に借りてきた。
最近、必ず買う集団のCDの発売がなくて、車の中で聴く音楽が枯渇気味で、CDチェンジャーには昔作ったベストが入っている。ちなみになんだか、子供が生まれてからだと思うんだけど、家族が乗った車の中で聴くCDは、みんなJ-POPになっている。いきなり洋モノを聴かせても、あんまり好きになれないかなと思ったのかな、勝手に。でもJ-POPにもぼくの趣味ってもんがあるんだけど、うちの豚児豚女は、結局あまりぼくの好みとは違う音楽を聴いている。まぁミスチルは許せるんだけど、ジャニーズは勘弁してくれー。
J-POPにしろ洋モノにしろ、出れば必ず買う集団のアーティストと、そこまでじゃないんだけど聴いてみたい集団と、あとはCDTVとかその他なんらかのきっかけで聴いて、お、これは良さそうじゃん、っていう人たちといて、後の2つはCDを借りてきてコピーを作る。日本の法解釈ではあまりおおっぴらに言っちゃ行けないことなのかも知れないけど、でも応援したいと思ったアーティストのCDは出資のつもりで必ず買ってるから、コピー作るのもそのためのテストだと思えば、そんなに罪じゃないと思ってるんだけど。
まぁとにかく日本の音楽著作権保護システムは、おかしいでしょ、どう考えても。ウチの会社のすぐそばにあるJASRAC様が仕切ってるんだけど。アーティストに権利があるんだか、JASRACにあるんだか、よくわからない。アーティスト自身が、この音源はみんな、自由にアレンジし直したり別バージョン作ってもいいよ、って思っても、できないんだよ、一切。そのためにウチの会社が後押ししてるCreativeCommonsっていうのがあるんだけどね。まだマイナーだけど。って昨日からやけに社会派だな。
で、そうやって借りてきたCDは、さすがに歌詞カード・・・というか冊子・・・をすべてとまでは面倒なのでやらないけど、表紙と裏表紙については、スキャナを使ってコピーして、外から見ると素人目には本物との違いが全くわからないものを作る。裏表紙にたいてい曲名の一覧が入ってるから、こうしておくと追加で何か書き込んだりする必要ないしね。
CD本体も、ハーフミラーみたいになったヤツはうまくできないので別として、そうでないものはこうしてスキャナでコピって印刷する。プリンタの進化はホントに著しくて、本当に本物と見まがうものができてしまう。これはCDだけじゃなくてDVDもやるんだけどね。
てことで今日はその借りてきた5枚、BonniePink、大塚愛、東京事変、ケツメイシ、徳永英明をコピって、表紙と裏表紙作って、CD本体もコピって、あと9mm厚の通常のCDケースをPC用のCDからひっぺがして、薄型CDケースと取っ替えて整理して、とかってやってたら夕方になってしまった。まだ音そのものはそれぞれ2,3曲しか聴けてない。
というわけで、ホントはもっと気合い入れて創作活動しなきゃいけないんだけど、多少の達成感はあり、まぁ2nderyとしてはそんなに悪くはない日曜日でした。
投稿情報: 23:41 カテゴリー: 時事問題, 音楽 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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