予報ではちょっと不安なことを言っていたが、早いうちに雨は上がり、この時期らしいいい陽気となった今日は、父の納骨で、一族の墓のある多摩霊園まで行って来た。
亡くなったのは去年10月の上旬だから、納骨を行う時期については特に決まりはないようだが、49日法要後とか3ヶ月くらいをメドにと一般に言われているものに較べればやや遅い。一つには真冬で寒かったのと、あと3月ごろまではコロナが隆盛で、人が集まるのは憚られたのと、さらに言えば実家に作った簡易祭壇の線香の火が動くのよ、お父さんが帰ってきてるのね--我々にはわからなかったがオフクロがそう主張し、お参りに来た何人かの親戚にもその様子が見えたらしい--ってのでオフクロがすぐには納めたくなさそうだったのと、というような事情があってね。
今朝は9時半ごろに家を出て、我が家の辺りから三鷹・武蔵野方面に行くのはちょっと前まで細い道しかなくて不便だったのが、近年片側2車線道路として西大泉まで整備された伏見通り(都道234号線・233号線・12号線)を通って行く。この道の起点が、大泉学園から東久留米の方に抜ける細い道にあるのだが、ここに出るのに前回迷ったのを、今回は事前にきっちりルート確認して、スムーズに行くことができた。そのため、東八道路からかつてぼくが小学校2年から4年の途中まで通った大沢台小学校の脇を通り多磨霊園まで、50分ちょっとで着いた。
人が集まると言っても、オフクロと2世帯住宅の片割れに住む兄夫婦と、親父の末弟の叔父夫婦と我々の合計7人だけの参列なので、まぁ地味なものだ。我が家は無宗教なので、上に書いた49日の法要とかもしなかったし、今日も坊さんや神父さんを呼んでいるわけではないので、着いた時にはもう開いていた納骨室に、葬儀屋さんと言うか納骨屋さんが骨壺を収め、白布をかけた簡単な祭壇に参列者それぞれが献花し祈りを捧げて、10分ほどであっさりと終わった。
この墓に新たに納骨されるのは、親父の義母であるおばあちゃんが亡くなって以来で、そのおばあちゃんは昭和49年に亡くなっているから、ほぼ50年ぶりのことになる。その時の納骨の記憶はぼくはうっすらとしかないので、この墓の納骨室を見るのは事実上初めてだ。カミさんが以前から、次男なんだからお墓は別に作んないといけないんじゃないの?とやたら心配していて、オフクロはまだたくさん場所あるからそんな心配しなくていいよ、 と言っていたが、納骨屋さんに言わせるとこの納骨室はかなり広くできてますね、あと少なくとも20人くらいは入れますよ、とのことだったので、少なくともぼくの代までは大丈夫なようだ。
父の次弟である倉本叔父は富良野に自分用の墓を既に確保したということなので、今日来た7人は恐らくこの先、順番にこの墓に入るメンバーだ。叔母を始めみんなで、あら、全然余裕なのね、と安心し合った。もっとも叔父2人には男の子はいないので、この先夫婦別姓の時代になったら墓の制度はどうなるのかということもあるが、この墓を受け継いでいくのは甥っ子かウチの息子しかいない。甥っ子はこのままアメリカから帰って来そうもないし、息子は茨城在住なので、この墓の面倒はこの先誰が見るのかと言う問題が生じる。こんど息子に確かめてみる必要があるな。
祖父はぼくがまだ生まれる前、親父とオフクロが結婚する前に若くして亡くなって、それから親父は4人の弟・妹を抱え、唯一の社会人として家計を支えることになったのだが、今日来てくれた親父の末弟の叔父は、そのころまだ子供だったので、親父は彼にとっては父親代わりのような存在だった。その嫁である叔母も、もちろん祖父には会ったことがなく、親父を義父のように感じて親しんでくれており、この手の儀式にはすべて参加してくれている。
ぼくはぼくで、末っ子である叔父には、2人兄弟ではあるが同じ末っ子として昔からシンパシーを感じており、殊にこの叔父は、変なグッズを集めたり自分の部屋にいろんなシカケを作ったり、例えばドアを開けるとロープにぶら下げられたベルがガラガラと鳴るようにしたりとか、そういうしょーもないものばかりなのだが、子供心に興味深く、またそのバカバカしさを自ら楽しんでいる様子が好きで、この叔父、叔母、それとぼくにとっては従姉妹に当たるその2人の娘には、親しみを持っていた。ぼくの「工夫マニア」の血も、この辺から受け継いでいるのかもしれない。
オッサンになってからは、この叔父は凧が趣味になり、ウチの娘が小学生の時に、ウチの両方の従姉妹たちが集まって、何十枚も連なった連凧を上げるのを観に行ったことがある。凧上げ仲間のオジサンたちはみな優しく、子供たちの名前が入った凧を作ってくれたりした。
以前書いたかもしれないが、ぼくが中学から高校に上がる春休みに、東北を一人旅したことがあり、当時仙台に住んでいたこの叔父夫婦と、まだ2歳だったその長女Y子の家に、しばらく泊めてもらったことがある。Y子は東京で生まれた初めての年下の従姉妹であり、生まれた時中1で弟か妹が欲しくてたまらなかったぼくは、生まれてすぐに病院に会いに行って、恐れることなくY子をひょっと抱っこしたので、叔母に驚かれた。
仙台では昼は山寺立石寺とか平泉とか松島とかに出かけて、夜は帰って毎晩Y子ところげ回って遊んであげたら、Y子はすっかりぼくに懐いてしまい、帰りの仙台駅で大泣きされたし、それ以来ぼくのことを、もう立派に高校生の娘を持つ母親になった今でも、「〇〇兄ちゃん」と呼ぶ。
あっという間に終わった納骨の後、多摩霊園の正門そばの休憩所で少し時間をつぶしてから、国際基督教大学の裏にあるTablieというフランス料理屋さんに行って昼食にする。ここは兄が見つけ、親父が存命の頃から墓参りの帰りに何度か寄ったことがあるらしいが、ぼくらは初めて行った、なんでもない住宅街の中に普通の民家を改装してひっそりと営業しているお店で、今日頂いた昼食フルコースはかなり美味。
話は、もう79歳になるその叔父がちょっと頭が弱って来ちゃったのよとか、しっかり者のその叔母が病気になったらどうしようと娘たちが心配しているとか、お父様に先立たれて一人暮らししている兄嫁のお母さんの話とか、それにしてもウチのオフクロはしっかりしているとか、まぁおおむねそれ系の話がほとんどだ。今のところ唯一の男系第4世代のウチの孫の自慢話もさせてもらう。
美味しい料理を堪能して、14時頃に店を出、三鷹から武蔵野市役所の前を通り、善福寺の叔父夫妻の家まで送っていく。この家はもともと親父の代に我が家の実家があった場所であり、倉本叔父がまだ東京に住んでいた時に、その昭和49年に亡くなったおばあちゃんが住む家との2世帯で建てたもので、おばあちゃんが亡くなってから、そっちの家にこの末弟の叔父一家が住むようになった。倉本叔父は富良野に住むようになってからもこの家をそのままにしているが、東京に来ることがあってもホテル住まいをすることが多く、ほぼ帰ってくることはない。
送っていく車の中で聞いたのだが、この家を先々どうするかは、末弟の叔父夫婦に任せると言う遺言を倉本叔父に既に書いてもらっているということで、まぁ駅からは遠い--最寄駅は西荻窪か吉祥寺で、歩くと15分~20分くらいかな?--が、東京女子大裏、善福寺公園の上と言う場所が場所だけに、買い手が付けば、少なくとも億は下らないだろう。今後の経済的なことを考えると、これでだいぶ安心できていると叔母が言っていた。
その家の庭に菜園を作っていろいろ育てていると言うのを見せてもらってから帰路につく。青梅街道からまた伏見通りに戻り、来た道の逆コースをたどって、15時ちょっと過ぎに帰って来た。
いやいや、なかなかの日和に納骨できてよかった。親父、安らかに眠ってちょうだいね。
コメント