米が好きなのに平日は米を食わないと言う話を昨日したところだけど、考えてみればそういう自己矛盾って言うのは世の中にいっぱいある。
いま一番目立つのが、消費者金融のCMだよね。どこの会社もてんでに、「ご利用は計画的に」って吹聴しまくってるけど、そんなこと言うんだったらサラ金を使わせなければいいんだし、辞めればいいじゃん、そんな商売、って思いません?もともと計画的でないからサラ金を使わざるを得なくなるんじゃないの?
いや、とはいえやむを得ずそういう状況に陥った方を、他に助ける手段がないとしたら、それはもちろん意味がないってことではないし、企業としての存在意義がないとは思わないんですよ。でもだったら、そういう風に堂々と主張すればいいのにね。みんな同じこと言って、どこの会社のコマーシャルだかわからないくらいなら。まぁ世間に受け入れられるかどうかはかなりリスキーだけども。
そういう類のCMとしては、あとはJTだね。喫煙者としては個人的に彼らの現状には同情するけれど、歩きタバコはやめよう、っていう一種の自己否定と、あとは食品とかバイオ事業とかそういう、有価証券報告書によれば全体売上の1割にも満たない事業部門の宣伝に汲々としている。喫煙には縁のない人から見ると、それこそ辞めればいいじゃん、そんな商売、だよね。
しかしJTって売上6兆以上もあるのね。そのうち92.5%(2008年度)が国内、海外のたばこ事業。そりゃそうか。おいらだって1日1箱として、年間10万円くらい使ってるもんね。喫煙率が下がってきたとはいえ、2008年で25.7%、つまり約3,000万人が吸っているとすると、単純計算すればそれだけで3兆円になるってわけで。
ていうかそもそもコマーシャルそのものが自己矛盾なのは皆様ご存知の通り。
TVで言うと、ビデオテープに録画していた時代から、CMスキップ機能がもてはやされ、それがHDレコーダーになって、30秒飛ばしや、さらにはCMと本編の境目に自動的にチャプターを刻んでくれて、ボタン一つで飛ばせるようになったことが、多くの購入者に歓迎されている。つまり観る必要のないものがCMであって、ぼくらの世代も子どものころから、コマーシャルなんか観なくていいでしょ、と言われて育ってきた。
でも時間当たりの制作費で言ったら、バラエティーやドラマの恐らく10倍以上のお金がかかっているはずのコマーシャル。映像や短時間に凝縮したメッセージの伝え方の質を較べれば、明らかにコマーシャルの方が上で、初めて観る分には、確かに多くのコマーシャルは面白い。なのでぼくは娘がコマーシャルをボケッと観ていても、特に何も言わないことにしている。
そういうことで言えば、電通、博報堂をはじめとして、広告収入で成り立っているTV局、新聞社などのマスコミも含めると、日本のトップ頭脳の多くが集まって、この大いなる自己矛盾を生業としているのも、それほど異常なことではないのかも知れない。
かく言うぼくだって、前の会社も今の会社も、広告で食っているわけだから、その自己矛盾の中にいる1人ではある。専門家ではないので、あまり広告論を振りかざす気はないのだけど、そんな中でも、前の会社、リクルートが、というか江副さんと言う人が始めた、広告だけを集めて、それがユーザーに必要とされる情報の集約になると言う商売は、画期的な価値観の転換だった。
あの会社が、前期はちょいと落ちたとは言え、あの規模であれだけの営業利益を上げていると言うのは、そういう意味では当然なのかもね。
広告のことばっか書いちゃったけど、広告の世界を離れた自己矛盾の最たるもの、これはやっぱ自衛隊とか原爆とか、そういう国家暴力だよね。いや、さらに広げて言うと、団体のものや個人のものも含めて暴力というものの存在が、自己矛盾と言えるのかもしれない。使わなくて済むものなら使いたくない、使われたくないもの、なのに何がしかの必要があって、人類始まって以来存在している。
その必要性のところが、過去さまざまな議論を呼んできたこの問題は、奥が深すぎて今日はもうやめとこうかな。またいずれ書きますね。
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