今日の記事は、超ローカルなノスタルジーで、たぶん読んでも興味をそそられる人は希少だと思うのであらかじめお断りしておきますです。
昨日の犬の記事が伏線だったわけではないんだけど、以前代官山ビルに引っ越した当日に、ちょっと抜け出して祐天寺のカレー屋さん「カーナピーナ」で開かれた「健康」の忘年会に顔を出した、って書いた。この時に、小学校以来の友人でありバンドのサポートメンバーであるABちゃんに、代官山に越したんなら一度かつて住んでいた南平台町と鉢山町の町境辺りに行ってみな、全然変わっちゃっててびっくりするよ、と言われていた。
その後なかなか行く機会がなかったんだけど、今週やっと1時間ほど空いた時間があったので、小学校4年から中学2年まで住んでいたこのかつての故郷に、フラッと出かけてみた。
代官山駅前から、並木橋通りと直交する通りを、都立一商の方へ歩いていく。代官山というのはぼくがかつて南平台に住んでいたころはただの東横線のローカル駅--なにせ一部がトンネルの中のため、一部車両のドアが開かなかったんだからね--の名前で、この辺一体は町の名前である猿楽町、あるいは鉢山町で呼ばれていた。
ぼくの住んでいたところからこの辺へは、今はなき母校、大和田小学校とは逆の方向だったので、たまーにチャリンコで遠出するとき以外あまり来ることはなかったのだけど、都立一商の前にあった駄菓子屋には、時々出かけていた。40年近く前の当時、この駄菓子屋の店先にはベーゴマ台が置かれ、近所の子供が集まって取った取られたと戦いを繰り返していた。
この店が今でもあるのかと見てみたら・・・あったあった。松井商店という名前で、裏に共同住宅のあるちょっとしたビルに建て変わっており、文房具屋として今でも営業している。
ここからさらに坂を下りていくと、かつてはパラボラアンテナが立っていて、今は建て直し工事中のNTTの前を通って、かつてのぼくらの町、鉢山町交番前の交差点に出る。脱走した駄犬スリーピーが、一週間ぶりにこの交番の前あたりで、どこに行ってたのか薄汚れた姿でうろうろしているのを、苦労して捕まえて連れ戻したことがあったなぁ。
ここら辺は各社の社宅や官舎の集まったところで、当時の専売公社、新日鉄、そして親父が勤めていた三菱化学の社宅アパートが並んでいたはずなのだけど、驚いたことに--っつーか35年も経ってるんだから当たり前だけど--これらはみんなかつてのアパート様の建物ではなく、マンションに建て変わっている。
ABちゃんが住んでいた建設省か何かの官舎も、すっかり別の建物になっているし、新日鉄の社宅は、これはなくなっちゃったのかな?なんか料亭みたいな建物に変わっている。調べてみると、これは新日鉄の社長公邸らしい。公邸?総理大臣じゃないんだからさ。
鉢山町交番前から桜丘町の方へ歩いていくと、当時と変わらずあったのはそば屋である八山庵。ここは小学校時代の同級生、ボーリングが神がかり的にうまかったカズタミの実家で、今は彼がここの主人になっているはずだ。 準備中の札が出ていたので、彼に会うことは遠慮したけど、当時隣の小学校であった猿楽小に通っていた「健康」のボーカル&ギター、ブーランが、彼の元気な姿を見かけたと言っていたので、がんばってるんだろう。
さて、この八山庵の筋向いにあった、三菱化学の社宅アパートと通りの間の土地にモデルハウスとして建てられたという狭い庭の一軒家、それが我が家だったはずなのだが...ない!裏の社宅だった場所まで広がる大きなマンションに建て変わっていて、かつての我が家は跡形もない。
いつも2Fの自分の部屋の目の前にあって、窓を開ければ見えたパン屋さんも、建物はひょっとしたら変わってないのかもしれないけど、イタ飯屋さんになっていた。
当時から変わっていなかったのは、このパン屋の脇の細道--昔はもっとずっと細かった記憶があるんだけど、少し広げたのかな?--を入っていったところにあった鶏肉屋さんと、パン屋のならびにあった八百屋さん。
この八百屋さんは当時あまり愛想がよくなく、オフクロはいつも大和田小に上がる坂のたもとにトラックでやってくる移動八百屋さんで野菜を買っており、子供のころにおつかいを頼まれて、大根ときゅうりかなんかを買いに行き、きゅうりが売り切れだったので、大 根だけ買ってこの八百屋に寄り、きゅうりを求めたら、「その大根いくらだった?」と聞かれて自らの失敗を悟った、っていう事件があったなぁ。
それから大和田小に上がる坂の下を通って--大和田小がもうなくなって跡地にビルの建築が始まっているのは知っていたので--、ここも友人が住んでいた桜丘郵便局まで行って、裏の細道を戻り、パン屋の横の道を、代官山の方へ戻る。
小学生の帰りの時間帯だったので、たくさんすれ違ったけれど、みんな猿楽小の方向から帰ってくるのが寂しかった。猿楽小に通ってるってことは、中学校は鉢山中になるのかな。松涛中の学区域の一番端っこだったから、遠かったもんね。
いやーなんか、諸行無常ですなぁ。これがヨーロッパなんかだと、中身は変わってても建物は変わってなかったりするのだけど、日本の木造モルタル建築中心の町並みは、35年も経つとすっかり様変わりしてしまう。
でも小学校から中学校という、ある程度物心ついた時期に暮らしていたので、生まれ故郷の北九州市八幡に行ったときみたいに、あれ?この道ってこんなに狭かったっけ?みたいなのはあまりなかったなぁ。
てことで完全な私的感傷日記でした。すんまそん。
私も1歳から11歳まで渋谷区南平台に住んでいました。学校も渋谷区立大和田小学校です。
この記事と写真を見て驚いたことがあります。まだ、八百屋が残っていたのですね。私も何度か買いもに来た事があります。
投稿情報: お宮 | 2010/12/05 01:49
訂正 下から1行目の私もでは、なく私は、です。
投稿情報: お宮 | 2010/12/05 02:04
おっと、奇特なローカル仲間がいらっしゃいましたね。
八百屋さんはすっかりうらぶれて、今にも壊れそうな風情でしたよ。
投稿情報: Tacovo | 2010/12/05 12:36