先週10日の日曜日に、父の告別式が行われた。場所は落合斎場だ。
まず近所に住む娘がチャリで我が家に来て、前日に洋服の青山で買ってそのまま置いておいた喪服に着替え、8時過ぎに車で出て、8時45分ごろには斎場に着いた。会場は既に準備は整っており、5~6m×10mほどのこじんまりとした式場と、簡易戸で仕切られた入口側が同じ幅で控えの間のようになっていて、ここに受付が設置されている。
親戚や親父のかつて所属した会社関係などから頂いた供花で、祭壇は思いの外華やかに彩られており、その手前に親父の収められた棺が置かれ、右上には40インチ程のディスプレイが設置されている。まずは葬儀屋さんが示した簡易戸のすぐ外の控えの間の台の上に、家から持ってきたディスプレイとMS SurfaceGOを設置し、そこそこ手間暇かけて作った親父の生涯をなぞったスライドショーをループで映す。
最初に訪れたのはぼくのいとこに当たるTで、手伝えることはないかと来てくれたのだが、準備は既にほぼ整っており、2Fの控室で待っていてもらうように伝える。オフクロと兄夫婦は開場の10時の10分前くらいに到着した。
10時から開場し、受付にはうちのカミさんと娘が座って、ご芳名カードに記入してもらい、親戚は2Fの控室に、会社関係の方は式場内でお待ちいただく。大体どこの家でもそうだと思うが、親のいとこや叔父叔母となると娘には見分けがつかないことも多く、不安がっていたのをフォローする。親戚一同が集まる機会が何年もなかったので、年を取ってしまったりでぼく自身もすぐにはわからない人もいて、なかなか苦労する。10時半ごろには息子が日立からやって来てカミさんと交代した。
親父の会社関係の方は、一時かなり大人数が集まってしまいそうな話もあったが、お年を召して体が弱っておられる方も多く、最終的には式場内に設置した46席が、おおむね半分親戚、半分それ以外の方でちょうど埋まるくらいの参列者数になった。
親父のかつて所属した会社は、最初に入社し常務まで勤めた財閥系化学会社と、その後9年間社長を勤めた上場製薬会社の2つがあり、その他に趣味だった蘭のアマチュア同好会組織である蘭友会の会長も12年ほど勤めており、親戚以外の参列者は主にこの3つの組織の方々だ。
ぼくはその最初の化学会社の、北九州市にあった工場に親父がいた時に生まれ、小学校に上がる前まで同市の現八幡西区(黒崎)にいたのだが、その頃のお知り合いの参列者の方にご挨拶をすると、ああ、こんなおチビちゃんだったころにお会いしましたよ、と、こちらはもちろん憶えていないが、口を揃えて言われた。
親父は親分肌のところがあって、住んでいたのは社宅の狭いアパートだったが、たびたび部下たちを数人から10人ほど引き連れて帰ってきて、家で宴会をすることがあった。突然来るのでオフクロも大変だったろうと思うが、3歳くらいのころから、そういうことがあるたびに、ぼくは親父の胡坐に乗って、今の時代にはあり得ないが、コップに注いだビールを飲みほしては、おおーっと拍手喝采を浴びるようなことをしていた。
なぜか兄ではなくぼくだったのがフシギなのだが、思えばその頃から、マジメでまっとうな兄に対し、そういう少し「道に外れた」ことをするのはぼくの担当、というある意味家族内での役割分担のようなモノができてきて、その後の受験とか、バンド活動とかにも繋がって行ったように思う。なにせ受験で落ちた経験があるのは、家族中でぼくだけだったからね。嫌な家だね。そりゃひねくれもするわな。
11時から始まった告別式は、まず兄がスライドショーを使って、親父の生涯を紹介していく。事前に作ったメモを見せてもらっていたのだが、ぼくも知らなかったことがあって驚いた。例えば親父が北九州に転勤したのは、ぼくが生まれる直前が初めてだと思っていたのだが、実はその10年以上前の1950年12月に一度北九州に転勤になっていて、祖父の会社が傾き実家が危機に瀕したので、会社に請い1952年初めに東京に転勤させてもらったとか。
東京に転勤した直後に父(ぼくからみると祖父)を亡くし、その時期長男の親父は4人の弟妹(叔父叔母)と母(祖母)を抱えて、唯一の社会人として大変に苦労したらしく、そのおかげでオフクロとの結婚が1955年まで延び、また叔父叔母たちは皆親父に頭が上がらず、倉本叔父--脚本家の倉本聰ね。本名の苗字はぼくと同じ--も含めて今だに「兄上」(オフクロは「姉上」)と呼ぶというようなことになった。
オフクロに、へー、遠恋だったんだね、と言ったら、そうね、当時は九州なんて、飛行機も新幹線もなくとんでもなく遠かったから、ほとんど帰ってこなかったし、電話も気軽にかけられるようなものじゃなかったから、ずっと文通していたのよ、と言っていた。それらの手紙はさぞかし赤面モノだったのだろうが、早々に処分してしまったらしい。
そんな紹介をしていって、その後その化学会社の方、製薬会社の現社長さん、蘭友会の方から弔辞を頂いて、その時点で案の定、予定時間を20分ほど押していたのだが、弔電を紹介した後、献花を狭い中2~3列に並んで行っていただくことで、出棺の時点では12時ちょっと過ぎで5分押しくらいになっていた。
我が家は親父とすぐ下の妹を生んだ祖母が若くして急逝し、倉本叔父以下の3人は母親が違うのだが、その義祖母が敬虔なクリスチャンであったために、叔父叔母たちは熱心さに差はあれ、信濃町の教会に通うことが習慣になっていた。
だけど、親父も幼児洗礼だけは受けたらしいのだがそれ切りで、クリスチャンとは言い難いので、今回の告別式は無宗教で行った。なので、読経とか説教のようなものはなく、それがいいことなのかはわからないが、少なくともその分時間はかからない。
落合斎場は、告別式を行う設備の細い道を挟んだ向かい側に火葬場があるのだが、その細い道が公道であるがために、いったん霊柩車に乗せて運ぶ。親戚以外の参列者の皆さまにはここでお帰りいただき、親戚一同で歩いて火葬場に行き、最後のお別れをしてお棺を火葬炉に収める。
それから控室に戻って来て、久々に会う親戚とも、ここでやっといろいろ話をすることができた。40分ほど経って再び火葬場に行き、お骨を2人1組で箸で拾って骨壺に収めていく。骨粗鬆症で腰骨を圧迫骨折とかしてた割には、骨はけっこう立派で量も多かった。
その後控室に戻り、皆で昼食をとって、14時ごろ散会となった。アメリカにいる甥っ子と姪っ子も、告別式の時からずっとZOOMで参加しており、式の時の肉声は聴こえにくかったようだが、姪っ子は親父が愛飲していたジョニ黒を買ってきたので今日はこれを飲むと言っていた。
それから実家に戻り、ちょっとして日立に帰る息子を--この日蕨の変電所の火災でJRの多くが止まってしまっていたこともあり--上野駅まで送って、再び戻ってきたら、実家の和室に簡易的な祭壇ができていて、ケースに収めた骨壺と親父の写真が飾ってあった。
夕方には今回「北の国から」の40周年イベントのため参加できなかった倉本叔父から電話があり、ぼくも代わってもらって、自分は全然大丈夫だけど、オフクロが落ち込んでしまわないか心配だと言ったら、兄弟で同じこと言ってるな、そういう時はオフクロに何か課題とか試練を与え続けるようにしろ、と言われた。
なので、一時行っていたが、親父の面倒を見るのとかで忙しくなり辞めてしまったというスマホ教室にまた行ってみたら?と勧めたが、まぁあの感じだと無理だろうなぁ。いや、意気消沈してるからということではなく、こういう機械の類は苦手なのよね、ということでね。
そういうことは得意で、かつコロナで「夢の国」の仕事が減ってしまい、一時派遣でauショップの店員をしていた娘に、教えてあげたら、とも言ったんだけどね。ショップ店員をしていると、毎日これはどうすれば?あれはどうすれば?と訪ねてくる80代くらいのおばあちゃんがいたりするそうなので、慣れてはいるんだけど、奴も今は「夢の国」と保育士の掛け持ちで忙しいからね。
てことで、手前味噌ではありますが、静かに親父を送ってあげられた、まぁまぁいい告別式だったんじゃないかと。ま、手前味噌って言葉を使うのがおこがましいほど、ぼく自身は告別式の準備は、スライドショー作成以外何もしてないのだけども。親父、安らかに眠ってね。
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