昨日11月26日は60回目の誕生日。FB友の皆さん、暖かいメッセージをたくさんいただき、本当にありがとうございました。
例年誕生日の度に書いていることだが、この歳になると誕生日だからってさして嬉しいことでもなく、特にこれと言った感慨もなく、還暦って言っても干支が一回りしただけのことでしょ、ってなもんなんだけど、物理的には、会社の制度上今月末で定年退職となるので、今週は再雇用のための雇用契約を結んだ。
一昨年いいタイミングで「同一労働同一賃金」が打ち出されたこともあり、ありがたいことに今までいただいていた給料が無条件に下げられるようなこともなく、平穏な契約締結だ。今後年に1度結ぶことになるようだ。
そして今日は、子供たちとカミさんが企画して、池袋の「月亭」という個室のあるしゃぶしゃぶ屋さんに、我々夫婦と孫も含めた息子一家、娘夫婦という我が家の一族にウチのお袋も加え、8人が集合してお祝いをしてくれた。
息子一家は日立まで帰らないといけないので、少し早めに夕方5時半に集まる予定だったのだが、常磐道で事故渋滞があったとかで、息子一家が来たのは結局7時頃になった。娘のダンナ君と息子一家およびお袋は初対面だ。こうして集まってみると我が家一家も大所帯になってきたもんだという感慨もひとしおだ。
それまではお茶をもらって普通に大人の会話をしていたのだが、息子一家が着くと孫が全部持って行く。今日は離乳食を全部食べて、ミルクはあまり飲まなかったが、その後は超ごきげんになって、全員に抱っこしてもらい、反り返り、車のおもちゃで遊び、伝い歩きをし、高い高いをしてもらい、大汗をかいて、その間ずっと何かおしゃべりをしている。誰が教えたわけでもないのに、カメラを向けるとカメラ目線になってニコッと笑うのがおかしい。
ちゃんとしたプレゼントはお酒を別途送ったからと言い添えつつ、娘が、「NORTHFACE」のロゴに模した「THE KANREKI IWAI 」と書いたロゴが入った、真っ赤なちゃんちゃんこならぬトレーナーと、汗拭き用のタオルを持ってきてプレゼントしてくれた。
前菜と刺身の後、しゃぶしゃぶにお茶漬けにデザートと言うコースなのだが、ここのしゃぶしゃぶは肉の質もさることながら、ごまだれともう1つ出てきたカツオ出汁のたれが絶妙に美味しい。最後に店のお姉さんに頼んで集合写真を撮ってもらってお開きにした時には、結局9時半くらいになっていた。
いやいや、こうしてこれからも子供たちが増えて、10人とかになって、って思うと、まさに子孫繁栄、これに勝る幸せはないよね。今日は初めてそれを現実的に想像できて、とても嬉しい日になった。
さて、以前は60歳以降を「老年期」と定義することが多かったようだけど、最近の論文や文献では「老年期」は65歳以上とするものが多くなり、少子高齢化時代の要求もあって、年金支給も65歳あるいは選択的に70歳からとなり、体が動くうちはもっと働け、という圧が強くなってきている。いやいや、40年近く働いてきたんだから、先立つものは多少心もとないとこもあるけど、少し遊ばせてくれよ、と思ってしまう。
今週火曜の勤労感謝の日に、学生時代のバンドサークルの後輩で、某大学教育学部教授であり、臨床心理士でもあるH女史が、1年ほど前から横浜のローカルFM局「マリンFM」でパーソナリティーを務めている「ミューズ心の相談室」という番組で、場違いにも我々「健康」の曲を2曲、かけてくれた。
その中で有名なエリクソンの「心理社会的発達理論」について--「健康」の楽曲のテーマである中老年の悲哀と強引に紐づけて--紹介していたのだけど、その理論でも「老年期」は65歳ごろからとされているが、サイトによっては60歳ごろからとしているものもある。もともとはなんて書いてあったんだろう?
その理論では、「老年期」の「心理社会的危機」は「自己統合vs絶望」ということになり、これを乗り越えたら「賢さ」という「力」を獲得できると言う。つまりそれまでの7段階の「発達段階」を振り返って、それぞれの「心理社会的危機」を乗り越え「力」を獲得できたかどうか、満足のいく人生だったか、自分の死後に残るものはあるか、といった問いに、Yesと答えられるかどうかが、「老年期」の「心理社会的危機」だと。Yesと答えられない場合、「こんなはずじゃなかった」と絶望的な気分になり、穏やかな余生が送れないと。
そういうことで言うと、自分が各段階で十分に「力」を獲得できたと言い切るのは難しいかもしれないし、自分の死後に大したもんは残んないとは思うけど、個人的には生来の楽天的な性格もあり、絶望とは程遠いところにいると思う。単なる気持ちの持ちようかもしれないが、それはそれで幸せな(おめでたい?)ことだ。
今後どう生きていくかについては、上記の通りこれまでにも何度か書いてきて、60歳になったからって特に変わることはないのだけど、そういう意味でより「満足いく人生」にするためには、あと1,2年くらい働いた後、体が動くうちに、これまで行けなかった国内や海外のいろんな名所に行き、絶景に触れたり、おいしいものを食べたり、温泉に浸かったりできればいいなぁと思っている。
全く無計画に、行き当たりばったりにのんびりと時間を過ごす、というようなことは性格上できないだろうし、行く先々にいる人々とランダムにコミュニケーションを取ることにそれほど喜びを感じる質ではないこともわかっているので、ぼくなりのやり方になるんだろうけどもね。
これも前にも書いたけど、あとは仕事&勉強好き、家にいるの好きのカミさんが、どれだけ付き合ってくれるかだな。付き合ってくれなきゃ1人で行くだけだけど、まぁ照れくさいけども、この歳になっても一緒に行って欲しいと思う人がそばにいると言うことは、少なくともエリクソンの言う「初期成人期」の「心理社会的危機」である「親密vs孤立」は乗り越えられているって言うことかね。
あとはお互いに健康寿命をどれだけ保てるか、ってことと、熟年離婚されたりしないように気を付けることですね。
今週水曜には、先日のブーランの学校の生徒たちの楽曲制作のお手伝いをした--と言っても親父の件でぼくはレコーディングには参加できず、打ち込みデータをそのまま使ってもらうことになったのだけど--お礼にってことで、40年来行きつけの祐天寺のカレー屋さん「カーナピーナ」で、ブーランが「健康」メンバーみんなに奢ってくれた。リアルで会うのはあり得ないことに多分今年初めてだ。
話すテーマが親の介護のことだったりそれこそ熟年離婚--誰がとは言いませんが--のことだったり、我々でも軽々に曲にできないような重い内容ばかりなのだけど、前向きな話としては、来年の5~7月ごろにはライブ活動を再開しようかということになった。こういうのも「満足いく人生」に貢献する生き甲斐の1つだよね。
てことで毎年同じようなことを書いてますが、還暦を迎えての、これも生き甲斐の子孫繁栄を実感できたイベントのお話と、今の心持ちと言うか、これからもまだまだやりたいことやって行きまっせ、という決意表明みたいなものでした。いやいや、生き甲斐がいくつもあるぼくは、やっぱり絶望とは程遠い境遇にいられてるよなぁ。よきかなよきかな。
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