昨日、サッカー中継を万全の体制で観るために、早く帰ってきて、平日にはありえない8時半にはメシ食って、風呂掃除して、って完璧にやるべきことをこなしているさ中に、流しに片付けようとした茶碗を、ふとした弾みで落として割ってしまった。
これからガチンコ勝負の試合だってのに縁起でもない。
スタジオのデスクの上に持ってきた割れた茶碗、このアンマッチさがシュールだ。この茶碗、何年使ってたんだろう?少なくともこの家に引っ越してきてからは変えてないし、ヘタすっと15年、20年くらい使ってるかもしれない。その、思えばホントに特に大切にも扱ってこなかった相棒が、もう捨てられる運命になって初めて持ち主の部屋に来た、の図だ。
お茶碗欠いたと言えば、「ずいずいずっころばし」だけど、この歌詞も相当シュールだよね。"とっぴんしゃん"だの"どんどこしょ"だのと言う擬態語(擬声語?)が突然脈絡もなく出てくるとこなんて。そもそも場所を表す言葉「井戸の周り」が、一番最後になってはじめて出てくるところがすごい。情景を感じさせようなんていう姑息なケレンが一切ない潔さだ。
と思って調べてみたら、この童謡にはちゃんと意味があるんだね。「茶壷に追われて」ってのは将軍献上のお茶の行列が来るので、子供はみんな家に入るように言われていたことを表し、その戸を閉める様子が「とっぴんしゃん」なんだそうで。「抜けたらどんどこしょ」は、その行列が通り過ぎたら一息つけたっていうのを表してるんだって。
家の中で息を潜め、両親が呼んでも行ってはいけない。そうしているとねずみが米をかじってチュウチュウ鳴く。井戸のそばで茶碗が割れたような音も聞こえてくる。そういう意味だそうで。
だから長屋の家の中で息を潜めている子供たちの図、っていう情景を感じるのが正しいってことなんだけども、だけどそういう時代の差の要素を除いたとしても、シュールなことに変わりはない。童謡って多かれ少なかれそういう要素あるよね。「どんぐりころころ」にしても「やぎさんゆうびん」にしても。
しかもそれが子供がお風呂でするゲームの遊び曲になってるってのがこれまたすごい。子供って意味なんてなくていいんだよね。なんとなく語呂とか面白いワードとかあればさ。「ずいずいずっころばし」は古くから伝わる曲で作詞者不詳のようだけど、「どんぐり・・・」や「やぎさん・・・」は明確に作詞者がいるようだ。そういう児童心理に通じてなのか知らないけど、こんな歌詞を書ける大人の作詞者のセンスってすげえ。
だけど最近の親子はお風呂で握った手を浮かせて、なんて遊びやるのかな?「ずいずいずっころばし」の他にも、「おせんべ焼けたかな」なんてあったよね。ぼくは昔子供に何度かはやったような気がするけど、よく憶えていない。親父かお袋に自分がやってもらったことははっきりと憶えてるけどね。こうして昔ながらの遊戯ものって消えていくのかな。
関係ないけど「汚染部屋桁かな」って変換するIMEもシュールだねぇ。
しかしサッカーは勝ってよかったね。なんか相手はざっくり言えば作戦もフォーメーションもないような荒いチームだから、これに負けちゃいかんと思って観てたけど、こんな相手でもホームの後押しもあり、勝ったら日本の15倍の1人460万円と言う賞金をもらえるってこともあってか、必死でやってくるから、チャンスはなかなか作れない。
それでも少ないチャンスを生かして、よう決めましたわ。大したものだ。メンタル強え。これであと2試合やることは約束されたわけだけど、若いチームだから、たくさん試合をやって、さらに経験積んで行けるのはいいことだよね。
しかしこういうガチンコ勝負って、やっぱしどんなエンターテインメントよりもエキサイトするよなぁ。生だから誰も結果がわかってないってことも、思えば近年希少なシチュエーションだしね。
今日は携帯も直って帰ってきたし、欠けた茶碗の代わりの一客--茶碗って「客」って単位で数えるんだね。知ってた?--のほか、いくつか買い物して、カミさんが伝言ボードに書き散らす無茶振りを片づけたりして、予定よりも時間食っちゃったけどそれなりに達成感のあった一日でした。この買い物がらみは明日書くかな。
明日はあさっての「健康」のひさびさの練習に備えて、個人練習しなきゃ。
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