「これだから『ゆとり』は・・・」とか最近の若手社員が上司や先輩に言われる場面が、ドラマとかでよく出てくるけど、 実際にあるのかね?前クールにやっていた『ゆとりですが何か?』ってドラマは、ドラマとしてはかなり秀逸だったけど、あそこまであからさまでないにしても、それに近い言われ方や思われ方はしてるのかな?
なんかそういう世代間バッシングって、いつの時代も止まらないよね。「今時の若いモンは」みたいな言い方は、さすがに昭和オヤジ的でダサいから、もう言われなくなってるのかもしれないけど、『○○世代』的な言い方だと、対象を広く捉えてるし、そういう教育を受けちゃったのは君たちのせいじゃないけどね、というエクスキュースが裏っかわにあるから、直接攻撃感が薄いってことが、救いになっちゃうのかな?
ぼくらの世代が社会人になりたての頃は、『新人類』なんてことが言われた。自分の感性に閉じこもってるとか、無感動だとか、やる気があるんだかないんだかわかんないとか。まぁ結局『ゆとり世代』と、言われてることは大差なくて、高度成長期の会社人間的な、上意下達、仕事は自分で取りに行って、やるとなったら期日までに死んでもやれみたいな価値観に染まった先輩の目から見たら、いつの時代も学生から上がりたての新人は、頼りなく勝手な奴に見えるよね。
そういう価値観も、時代とともに変わらなきゃいけないし、多少は変わってきてはいるんだろうけども、『新人類』と言われてきた我々世代が、今度は「これだから『ゆとり』は・・・」なんて言ってるとしたら、まぁ何とも情けない話だよね。変わりきれてないから、電通さんみたいなことになるんだろうし。
電通在勤の皆さまには、こういう言われ方も腹の立つ限りでしょうけどね。ええ、ええ、よくわかりますよ。ぼくは88年、事件のさ中にリクルートの、しかもどストライクの部署にいた人間ですのでね。いろいろと貴重な経験をさせて頂いて。
半分謂れのない中傷だと言うことはわかってはいても、ぼくらが社会人になって2年目に言われ出したこの『新人類』に対して、自分はもう2年目だから関係ないよね、って顔してたのは、やっぱりその価値観に負けて、巻き込まれてたってことだよね。
だけど考えてみると、『ゆとり』教育ってのは、それなりに新たな果実を生んできたと思うんだよね。一番わかりやすいのはアスリートの世界で、いろいろ他の条件もあるんだろうけども、事実としてリオでは過去最多のメダルを獲得してるわけで。昔とは明らかに違うと思うのは、なんか国の威信をかけて的な悲壮感なく、のびのびと自分の得意分野で実力を発揮している。
体操の白井選手みたいに、自分は床と跳馬が得意だから、総合はどうあれ、とにかくそこに集中してトップ取ってやるんだってのを、実現してるわけじゃない?音楽やパフォーマンスでも、デザインやCGアートなんかでも、『ゆとり』世代で世界で活躍している日本人って、明らかに昔より増えてるしさ。
いやもちろん、そういう「一流」になる人ってのは、才能にも恵まれてるだろうし、ものすごい努力を重ねた結果そうなってるってことで、それは昔も今も変わらないし、『ゆとり』だってレベルの高い学校とかに入る人は、昔と同じように努力はしたと思うのよ。
だけど努力の方向の自由度が昔よりは格段に上がってるし、自分のやりたいことをやるんだから、結果を出すことに対するモチベーションだって全然違うわけで、つまり総じて「やらされて」る度合いが減ってる感じがするんだよね。それって『ゆとり』教育の一つの成果だと思うんだよね。
それを世界の中で学力ランキングが下がってきたんで辞めましょう、って、そんなの最初から覚悟の上のことじゃなかったんかい?そういう学力偏重の昭和中期の価値観から脱却するのが目的じゃなかったんかい?
ま、確かに『ゆとり』教育が100%いい面だけだったわけではないとは思うし、価値観ってのは揺り戻りしながら変わっていくもんだと思うから、仕方ない面はあるんだろうけどね。当時『ゆとり』教育を導入した時のその画期的な価値観というか意気込みが、時が経って違う人がトップに立つと、引き継がれないって言うね。ありがちだわね。
だからこそね。『ゆとり』世代をバッシングをするのって、その『ゆとり』教育が失敗だったと言われ、今はまた少し詰め込み気味に揺り戻したカリキュラムになっているという事実に対して、そうなったんだからそれが正なんだろう、っていう世間的な結論の尻馬に、深い考えもなく乗っかっちゃってる感が、ぼくには堪えられないほどダサく見えるんだよね。
まぁそもそも、『ゆとり』世代ってワードで、その自由な方向性を持った若者たちを、十束ひとからげに批評の対象にするってのも、なんかすごく胡散臭い。年齢と文化はもちろん相関は深いと思うけども、その文化自体が昔よりもすごく自由度を持って多様化しちゃってるから、そのすべてが『ゆとり』教育の影響だなんて、少なくとも直接的には全く言えない時代になってきてるじゃない?もちろん個性だって全然違いますしね。
それとね、こういう世代間バッシングって、ある面若さとか、未来とか、可能性とかってことに対するやっかみの面もあると思うのね。ああ、自分はもうその会社人間的価値観に染まってしまってるし、先の人生もこいつらほど長くないんだっていう。
でもね。『新人類』が言われたころは、バブルピークに向かう時期でもあったし、そういう風に思われてもおかしくはなかっただろうと思うんだけど、今は全然違うじゃない?人口は減ってくし、企業業績はいいと言いながら給料はなかなか上がらないし、先行きの不安でお金が使えない。
『ゆとり』世代には、そんな閉塞的な世情を支えて行って頂かないといけないのよね。自分たちがもらえるかどうかわからない年金を、ぼくらの世代のために払ってもらわないといけないのよね。そんな彼らに対して、ぼくはようバッシングなんてできませんわ。
ぼくらの世代って、若いころバブルも経験してるし、団塊と団塊ジュニアのはざまで、人口ピラミッド的には一時的に数が減った時期だってのもあって、しかも医療の進歩で総じて若さは昔よりも保てて来ていて、ってことで、かなりいろいろとラッキーな境遇にあると思うんだよね。バンド活動だのライブやって飲み会だの、子供の手が離れてくる中、もちろん3人寄れば病気自慢みたいなところはあったとしても、なんだかんだ楽しめてると思うんだよね。
今の人口減は、必ずしもぼくら世代だけのせいではないと思うけども、その責任の一端を負ってるのは事実だしね。だから、せめて今の若者たちが、なんとか未来に希望が持てるようにしてあげないといけない。バッシングなんかしてる場合じゃないんだよね。
てことで、実際に言われてるのかどうかは知らないけど、「これだから『ゆとり』は・・・」なんて言わないようにしなきゃいけないし、マスコミも無責任に煽らないで欲しいんですよね。
そもそもさ、バッシングとか、人をディスったりとか、かっちょ悪くない?他人を楽しくなくさせることが、刹那的には楽しい人もいるのかもしれないけど、それって本当に楽しく生きていくためには、長い目で見たときに、やっぱり何らかの弊害を生むと思うんだよね。
『ゆとり』世代に、楽しく生きていくための正しいノウハウを、考えて、伝えていくことが、ぼくらかつての『新人類』に課せられたミッションなのではないかと思う、今日この頃であります。
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