いよいよ年末も押し詰まってきましたな、という季節感は、クリスマスが終わると感じる。
クリスマスと言う行事は、ぼくはものごころがついたときにはミッション系幼稚園にいて、毎日礼拝堂でお祈りしたりしていたので、世間の仏教徒&無宗教な方々よりは、便乗感なくキリストの誕生日であることを意識できている気がする。いやいや、今はぼくだって完全に無宗教なんですけどね。
でも世間はクリスマスに向けて盛り上がっていくし、最近は家に電飾をするところがすごく多くなった。そういう家々がみんなキリスト教徒であるわけはなく、明らかに便乗感満々なんだけど、ぼくは別にそのことに抵抗を感じないし、電飾はきれいだから、うちはそんなに凝ってはいないけど、端くれくらいには電飾をするし、居間にツリーを立てて、その電飾を電気を消して眺めたりするのも嫌いではない(下の2枚がうちの写真。上の2枚は誰かの住宅ではなく、近所のパン屋さんの電飾です)。
うちのサンタは、もう3,4年前から来ないことになった。息子と娘が5歳離れているので、まず娘が幼稚園のころに、実家からの帰りの車で、まだ起きていた息子に、サンタは我々であり、娘にわからないようにお前向けのプレゼントも置いてやるけど、いつまでも続くと思うな宣言をしたうえで、その晩まで忙しくて用意ができなかったゲームの攻略本か何かを、本屋に寄って買う、ということがあった。
それから娘が確か4年生の時に、サンタのほかに親からもプレゼントを要求するなど、どう見ても確信犯であることが読み取れたので、サンタはもう来ない宣言をして、それ以来、うちにはサンタは来ない。
サンタは来ないけど、でもクリスマスはやっぱりクリスマスだよね。クリスマスソングなんていいもんだし、前の会社でやってたバンド向けに作ったりもしたし、「健康」も大昔のラブソング時代にだけど、なかなか素敵なクリスマスソングを持っていた。
最近の「健康」でいうと--というか昔からやってる曲なんだけど、レコーディングの時に歌詞を少し書き換えたもので--ぼくのお気に入りのフレーズは、"正月早々めでたいな"という曲に出てくる「クリス松」という一言。
これって、ツリーを片付けると今度は松飾の準備をして、お正月には「春の海」を奏でる琴の音を聴き、雑煮を食べ、初詣に出かけ、っていう、なにげない年末年始の行事の、なんと和洋折衷、節操なきことはなはだしきことか、--って言うかそもそもクリスマスが過ぎると年末が押し詰まってきたと言う冒頭に書いた季節感自体そうだよね--そういう我々日本人の無節操への皮肉を、たった一言で見事に表してると思うんですよね。
まぁこういう便乗感がなくなってきて、あたかも元々そうであったかのように溶け合っていくと、それはもはや新しい「文化」なんだよね、きっと。歴史的には、仏教伝来以来の神仏混合とか、なぜ餅を食べるようになったのかとか、いろいろ謂れがあって、それぞれに当時は違和感があったことが、溶け合ってきてるんだよね、多分。
夫婦でも同じじゃないですか。互いの文化の融合だよね。靴下のたたみ方とか、朝の歯磨きは食前か食後かとか、そういう本当に日常の、結婚前の甘い気分を吹き飛ばす、思いっきり現実的な現実の中の、ほんとに当たり前の細かいこと一つ一つにね、それまで生活を共にしてきた家族の文化が、人間だれしも染み付いていてね。
それが食い違うことが本当に新鮮なんだよね。そんな気分はうちの場合、もう結婚20年経って、もはや少なくとも19年くらい近く感じたことがないけども。子供ができると、彼らが体現することがその家庭の文化になって、多くにおいて妻方に少し寄った形で、固まっていくんだと思うんだけどね。
ということで、クリスマス&お正月文化論でございました。
最近のコメント