雛人形出した日に、変な感じだけども、雛人形の写真をバックに、珍しく息子との話をしましょう。
3週前の「僕らの音楽」が、ゲストミュージシャンが吉川晃司、対談のパートナーが小泉孝太郎で、父、小泉元首相との関係について語っていた。小泉さんは叱り方が絶妙で、今日はヤバい、叱られると思って帰ると絶対に叱られず、今日はいいことしたから褒めてくれるぞと思って帰るとガツンとやられる、と。なるほど。
この話を聞いて、自分と父親の関係は、自分と息子の関係は、なんて思いを馳せてしまったのですけどね。このネタ、これまた結構、家族の歴史的な、重めの恥ずかしめの話なので、書こうかどうしようか迷っていたのですよ。しかも今週は火曜日に娘が車の免許を取って、その話を書こうと思ってたんだけどね。娘は今日のバレエはパスしてバイトに行くっていうので、まだ助手席で実際に運転する奴の姿を見ていないので、こいつは先送りにせざるを得なくなり。
んで昨日の深夜に、倉本叔父最大の代表作となった「北の国から」の、3年前後に一度の特番放送になってからの作品のうち、ファンの間でも評価が高く、ぼく自身も多分一二を争う名作であると思う「'89帰郷」を、久々に観てしまったのね。
看護学校に通う蛍が、初恋の人勇二(緒方直人)が東京に行ってしまうのを送りに行った富良野駅で、その電車を泣きながら追いかけるシーンがクライマックスのこの作品なんだけど、一方で東京で定時制高校に通いながら働く純が、傷害事件を起し、傷ついて帰郷して行う父子のコミュニケーションが、地味だけど重要な横糸になっている。
父の入る五右衛門風呂を、外で沸かしながら、壁越しに語り合う会話。「どうして喧嘩した?」「大事なもの(純が富良野から東京に出る時に父からトラックの運転手に渡された、泥のついた1万円札2枚、ということは言わず)をそいつに取られたから」「そうか。それは人を怪我さすほどお前にとって大事なものだったのか?」「ああ」「なら仕方ないじゃないか。男は誰だって、何と言われても、戦わなきゃならない時がある。」
倉本叔父(前にも書いたけど、父の弟なのでね。本名の苗字はぼくと同じ)は、実の子供はいないのに、こういうストーリーをよく書けるよね。これを観て、また思い出してしまったのですよ。3週間前に思い出したことをね。
自分の父親には、ずいぶん背中は見せてもらったとは思うけど、あんまり直接のコミュニケーションで感動的だったことだとかっていうのは記憶に無い。何度か頬を張られたりはしたものの、一度聞いたことあるけど、子育ては理不尽でなきゃイカンという主義のもと、その理由の説明とかは聞いたことないし、語られたり諭されたりということはまずなかった。そのことに反発を感じたこともある。そういう意味では昭和のオヤジだった。
だから子供心に、自分の息子とはもっとコミュニケーションを取る関係を築こうとか、一緒にレゴで遊びたいとか思ったもんだけど、結局自分の息子とも、まぁ親父との間よりは、普通に語り合うってのは多かったと思うけれども、感動的な場面ってのはそれほどはなかった。息子自身、中学時代の一時を除いて、反抗期的なものはほぼなくて、すごく真っ直ぐまっとうに育った方だから、っていうのもあるかも知れない。
遊びに付き合わされたことは山ほどあった--これも親父との関係とはちょっと違う--けど、よく息子とキャッチボール、なんてのがステレオタイプ的場面であるけども、実際に息子とキャッチボールなんてのは、多分片手で数えられるくらいしかやってない。ま、息子の好みで遊ぶわけだから、親が思うような興味の持ち方にはならないものだし、親父はぼくの好みには合わせてくれなかったってことで、世間の父親像の時代を追っての変化と、まったくリンクしてるよねこれって。
そんな中でも記憶に残る数少ない感動的な場面を、小泉孝太郎に思い出させてもらったんだけど、それはまだ息子が幼稚園の年長くらいの時。家に帰ると、なんだか寒々とした雰囲気だ。カミさんは黙ってキッチンで洗い物をしており、息子は何をしていたか憶えてないけど、普段やかましいくらい会話の多い我が家で、全く会話が行われていない。
息子と風呂に入って、どうしたんだって訊いたら、なんだかわけわかんないんだよ、と言う。お母さんが晩御飯にあまり好きじゃないおかずを出したので、ぼくこれいらない、カップラーメン食べる、って言ったら、急に怒りだして、そんなこと言うんなら食べなくていい、と皿を片づけ、家を出て行く、と言われたと。
それはお前、考えてみろ、とぼくは言った。お前が--それまでにも一二度、手伝ってもらいながら作ってみたことがある--カレーを一生懸命作って食卓に出したら、いらない、カップラーメン食べるからいい、って言われたら、どんな気持ちがする?お風呂出たらお母さんに謝れ、と。
意地は張っていたけど気持ちが切れそうになっていたらしい息子は、風呂から上がって、しばらくもじもじしていたのを、ほら行け、と背中を押すと、キッチンに行き、お母さんごめんなさい、と言いながら、ボロボロ涙をこぼした。カミさんは、お母さんは出ていかなくていいのね、と言った。
これ、思い出すたびに涙が出そうになるんだよね。冷静に考えると、カミさんのほうがずっと父親的で説明なし、ぼくのほうがずっと母親的で諭し系っていう、我が家の縮図を見るような場面だよな。
ってことでちょっと恥ずかしい我が家の思い出でした。こういうことの積み重ねが、家族を家族たらしめていくんだよな、って、その時は思わなかったけど、今にすると思うよね。本人は憶えちゃいないだろうけど、24歳になっても、親から見ると子供って、そういうことをしてた奴なんだよね。
ま、だからっていつまでも子供だと思ってるわけじゃないんだけどね。それなりに認めているつもりはあるんだけどね。つい、ちゃんとしてないところを探して、ちゃんとしろよ、って言っちまうんだよね。
ちゃんとしろよ、って言えることがなくなった時に、というかそんなこと言うことへのモチベーションが薄れてきた時に、精神的に隠居するんだろうな。って、同世代のみんなに比べて我が家は比較的子供が2人とも大きいので、そんなことを思ってしまいます。
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