今月の3週目から仕事が変わって、勉強勉強の毎日なのだけど、昨日、ある資料を読んでいたら、「蓋然性」という言葉にぶつかった。
恥ずかしながらこの言葉の意味をよく知らなかったのだけど、調べてみるとこれがけっこう深い。「蓋」という字はもちろん普通に読めば"ふた"なのだけど、そう言えば昔古文だか漢文だかで、「蓋し(けだし)」って言葉が出てきたよね。
「蓋し」っていうのは、Wiktionaryによると、"(文章語)以下に述べる言説が、かなりの確からしさを有すると言うこと"という意味だそうで、つまり「蓋然性」って言う言葉は、可能性が高いさまを表し、英語で言うと"posibility"に対して"probability"に当たり、通常使う(?)言葉で言うと"公算"というのが意味的に近いようだ。
で、いくつかのサイトを眺めていると、そもそもこの「可能性が高い」という表現が日本語として誤っているんだそうで。こちらのサイトによれば、「可能性はあるかないか? ゼロでない限り、常に可能性は "ある" のです。多少や高低など、程度をいうなら蓋然性です。二つの概念を混同してはなりません。」ということなんですと。
つまり、「可能性」って言う言葉は0.0001%でも実現する見込みがあれば使っていいのに対し、「蓋然性」と言うと、少なくとも数十%の見込みがあることを表すと。意味的なニュアンスもやや異なっていて、こちらのサイトでは、「夏目漱石は教壇でこの区別を示すのに「私はこの教壇で逆立ちをする可能性はあるが、蓋然性はない」と教え子に言ったそうだ。なるほど、理論的な想定からみた場合を可能性、現実的な確率からみた場合を蓋然性という。」と述べている。
ところが現在の日本語では、「蓋然性」という言葉は一般にはほとんど使われない。言葉がないということは、概念がないということだ。すなわち、日本では、ほんの僅かでも起こり得ることであれば、現実的にあり得ることなのか、ということとは関係なしに、『ある』と認識される傾向があるってことでしょ?
これって、ぼくにとってはものすごく「なるほどなぁ」だった。
こないだの新型インフルエンザの問題にしろ、中国の餃子の問題にしろ、とにかく「可能性がある」ってことに対して、エキセントリックに反応しすぎるってのが、その結果なんじゃないの、ってことでね。その可能性ってのは、何%あるの?仮にその風邪をひいたとして、命を失うなり、そこまで行かないとしても相当に苦しい目にあうってことが、現実にどのくらい起こり得るの?
いや失礼、「可能性が何%」という表現も、本来日本語として間違っているんだそうで。最低でも「蓋然性は...」と言うべきであり、蓋然性を数字で表したものが「確率」なので、ここは「確率は何%」という表現がもっとも正しいんだそうだ。
逆に、「攻める」場面でもこの裏返しの現象が起きる。日本人の貯蓄率の高さがそれを表している。つまり、投資を考える時に、損をする確率が例えば8%、元本を失う確率が2%あれば、得をする確率が40%あったとしても、お金を貯蓄に回してしまう、ってことが起きてるんじゃないの?ってことでね。
一方でみんながやってれば怖くない、っていう村心理も濃厚にあるため、バブルのころには、みんな株や土地に投資して多くの人が痛い目にあった。あの時の状況では仕方がなかったかもしれないけど、いずれにしろ蓋然性の評価が冷静にできていないことには変わりはない。
上記の投資の例はこの「日本のここがおかしい」というサイトに書いてあったんだけど、このサイトでは、「可能性があるというだけで、恐れて、ある行動を止めたり、夢に人生をかけすぎたりしては、失敗する事になります。世の中には勇気がある人と、臆病な人がいます。でもこの勇気がある人は蓋然性の計算を冷静に行える人の事で、肝が太い人の事ではありません。臆病と呼ばれる人はこの計算ができないのです。ですから、冷静に蓋然性を計算する知性が必要なのです。」
さらに「(中略)知っていることを知性と言います。(中略)知性により蓋然性を計算できて、恐れてばかりいないで、前に進むことが出来るようになるのです。このために人は勉強をしたり、読書をしたりして知性を磨く必要があるのです。ですから、何かというとすぐ可能性だけを言って、恐れて、勇気を出せない人は、気が小さいのではなく、知性がないのだといえます。」という。そうだよなぁ、と思う。
いやいや、リスクマネジメントと言う意味では、少しでも実現する見込みがあればそれに対して対策するってことは、間違っちゃいないんですよ。だけど、仮に世界の全人類が死滅するとしても、0.00001%の確率のことだったとしたら、経済原則の観点から言った時に、いったいいくらお金をかけるのが適切なんですか、ってことでね。
政治家はバカだアホだと言われるけど、そういう意味では同情すべき点もある。ちょっとでもミスをしたり、政治手腕とは全然関係のない生活態度面などで問題があると、鬼の首を取ったように責任取れだの辞任だのと責められる。これなんかも似たような現象だよね。
有名人と言う意味では、草彅剛の謹慎だっていい例だよね。別に六本木の真ん中の公園で、酔っ払って裸で大声あげるくらい、いいじゃない。誰に迷惑がかかるわけでもなし。
もっとも政治家自身、これを逆手にとって、小沢さんの秘書の逮捕問題みたいな、ああいうスキャンダルの、いわば"捏造"による足の引っ張り合いを平気で行っているので、まぁ自業自得とも言えるのかもしれないけど。
てことで、この「蓋然性」、もっとみんなで使って、その概念を日本人の間で育てていきませんか。そうすれば少しずつでも"迷信度"が減って行くんじゃないかなぁ。
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