新カテゴリ「主張」を作った。
なんか最近、あったこととか存在するものとか、って言いながら、前はMixiにしか書かなかったよう
な、おいおい、これオープンにして大丈夫なのか?っていう思ったこと、青年の主張っぽいやつを、このブログに書いちゃってるなぁ。ヤバくない?これ。「あ
の頃の未来は」って歌詞のこと書いたあたりからかな?
今日は昨日の"後姿"に続く青年の主張、"UFOを「信じる、信じない」で語っちゃうのって..."でございます。
昔から思ってるんだけど、UFOって、幽霊とほぼ同列に語られてるじゃん?あれって不思議だよね。別にぼくは矢追純一ファンでもないし、UFOだって見たことはない。だけど信じるとか信じないなんだっけ?
いや、厳密に言うとUFOが、ではなく宇宙人が、なのかな。だって、いや、そもそも宇宙人とかUFOっていうワードが既に奇怪感を帯びちゃっているのでよろしくないんだけど、広い宇宙の何億という惑星の中には、地球と同じような形態かは別として、生命を持ったものもいるだろうし、彼らが地球よりもはるかに進んだ科学力を持って、地球に飛んでくるという可能性はないとは言えないし、科学的にありえないことじゃないじゃない。
だから幽霊とかゾンビとか、呪いとかポルターガイストとか、そういう超常現象系の話とは、もともと次元の違う話だと思うんですよ。
UFOが飛んでたら「おっ!すげっ!」とは思うと思うけど、それは別にありえない話ではないから、すごく確率の低い現象---いや、現象ではないか、現実か---に出会ったんだなと思うだろうけど、
そして、それを飛ばしてきた科学力の進んだ生命体が好戦的であったなら、我々などひとたまりもないかも、っていう恐怖感はあるだろうけど、それは非科学的なものを見た原初的な恐怖感---いわゆるゾッとする、ってやつ?---とは、違うものだと思うんですよね。
だからといって幽霊なんて非科学的なものは、ぼくは頭から信じません、という気もないのだけど。だから「オーラの泉」を観ても腹は立たないし、江原啓之さんにぼくの背後にどんな人がいるのか、看て欲しいと思うし。彼があそこに出演している芸能人たちの情報を、あらかじめ聞かずにいろんなことを言い当ててるんだとしたら、それはなにがしか科学的な裏づけがあるか、さもなくば本当に超常現象なんだよね、ってことじゃない。それはそれですごいことだな、と思うんですよ。
だけど彼が普通の常識人である限り、それに対して恐怖感は感じないよね。彼がもしヒトラーだったら、UFOで地球征服に来た知的生命体に対するのと同じ恐怖感を感じるかもしれないけど。
幽霊に実際に遇ったら怖いかも。それは原初的な恐怖感。だけどそもそも幽霊って、人間の
想像力が作り出したもので、そういう原初的な恐怖感を詰め込んで成立したイメージじゃない
ですか。そりゃ怖いでしょ。
そう言う意味では、UFOだって信じるとか信じないの対象になってるうちに、ホントに見た人もいるんだろうけど、なんだか話に尾ひれがついてきて、地球の乗り物では信じられないような飛び方をするとか、突然消えるとかばかりが強調されて、原初的恐怖感の固まりになってきてるけどね。
だけど現実に、目の前にいる人が、実は一度死んでいて、でもまったく普通の人間と同じに生活できているとしたら、気味悪くは思うだろうけど、恐怖感はないよね。
つまりUFOにも幽霊にも、原初的恐怖感と、自分が殺されるかもしれないって言う恐怖感と両方あるようにさせられて来たんだけど、前者はたぶん科学的に説明がつくことであるはずなのに、なんかそのへんの恐怖感を意図的にごっちゃにさせられて、その存在自体が、信じるとか信じないとか言う対象になってしまっている。
そういうところって、科学も発達しておらず、教育水準も低かった古代や中世の人々と、何も変わってない感がして、なんだかすごく情けなくなるんですよね。
しかもそういうのがなんだか国民の共通認識みたいになっちゃうところも、残念ながら国民性なんだよねぇ。まぁ、単一民族だから、そういう感受性が複数クロスオーバーしてなくて、なんだか相乗効果でアッという間に盛り上がっちゃうってことなんだろうけど。自我が確立してないって言うか、アメリカだったらなさそうな、そういうなんつーか「村」感?が、日本には濃厚に残ってるよね。まぁ、西洋でもヨーロッパには"魔女狩り"なんてのがあったけどさ。
これもまた、考えてみれば超常現象に近い不思議な集団心理ではありますな。
というわけで、UFOを「信じる、信じない」っていう物言いは、やっぱかっちょ悪いんでやめませんか?っていう話でした。これがまた、貼る画像がないな。探そう。
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